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zoom RSS 自分を省みる

<<   作成日時 : 2009/11/30 22:36   >>

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 『神社新報』11月2日に、「〈杜に想ふ〉人間は生きてゐる 須浪伴人」というものがある。
 東京で暮らし始めてかれこれ二十年になる。学生の頃は自転車で通学してゐたのだが、就職してからは通勤電車に揺られてゐる。朝の電車はほぼ例外なく混雑し、乗客のほとんどは不機嫌な顔をしてゐる。当然だらう。
 通勤電車が混雑するのは、なにも日本だけではない。イギリスでも通勤時間の電車は混み合って、場合によっては駅のホームに入場制限がかかることもある。
 一見するだけでは日本もイギリスも変はりないやうに思へるかもしれないが、実は大きな、そして決定的な違ひがある。
 日本の通勤ラッシュ、とくに東京での光景は世界的に有名で、その様子はテレビ番組などで放映されてゐる。どう見ても満員の電車に乗り込まうとする人々、それをまるで荷物か何かのやうに押し込む駅員の姿は、外国の人にとってまさに東洋の神秘、日本の驚異として映るらしい。

 では、同じく通勤ラッシュのあるイギリスではどうかといふと、どんなに混雑してゐようが駅員に身体を押されて乗ることはない。いや、下手に駅員が押したりすると訴へられるかもしれない。
 電車の中は、混雑してゐるとはいへ、隣に立つ人には何とか接触せずに済む距離を保たうと互ひに気を遣ってゐる。つまり車内にはある程度の余裕がある。
 翻って我が国の通勤風景はどうか。混雑で有名な路線では乗客を押し込むための駅員がホームに常駐し、一度電車に乗ってしまふと身体が斜めになったまま持ち直すこともできない。
 満員電車の中は当然、乗客と乗客の間に空間など存在しない。それなのに本を読んだり携帯電話を使ひ始める人が多くゐる。ひどい場合は他人の背中を台のやうに使ふ者までゐる。

 ここでふと考へた。日本人は他人をモノとして扱ってゐるのではないか。
 イギリスでは、電車で隣に立ってゐるのは生きた人間だ。知らない人に触れたり触れられたりするのはあまり気分の良いことではないから、距離を保つ。

 一方日本では、混雑した電車に乗ってゐる人間は自分一人だけであとはすべてモノ。さうでなければ赤の他人に密着して過ごすなんて気持ちの悪いこと、できるわけがない。
 相手がモノだから当然、自分の本や携帯電話が当たっても気にしない。壁にぶつかっても壁に謝る人がゐないのと同じだ。これでは、日本人の美徳は察しと思ひ遣りだなどと言はれても、とても信じられない。

 さて、我々神職の務めは神明奉仕であることは疑ひない。しかし同時に神と人との仲執り持ちでもある。つまり、神様のことを考へるだけでは神職は務まらないといふことだ。人間も神々と同様に生きてゐる。それを忘れた神職は世捨て人にでもなればいい。
(神職・翻訳家)

 この文章を読み、自分の行動を省みた。全てではないが、当てはまることがいくつかあったからだ。私は電車通学ではないが、確かに、人を人として扱っていなかったのではないか、そう考えてしまった。
 これに限ったことではないが、自分の行動について、省みたほうがよいのではないか、と思うことがいくつかある。しかしながら、今、後悔しても遅い。後悔先に立たず、という言葉がある。後悔の無い人生を送りたい。


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